« 原発か太陽光かという旧い問いについて | トップページ | 放射線のキャロットダイヤグラム未解説の怪 »

2011.03.21

原子力アレルギーを思う

原子力アレルギーとは何だろうかと考えることがある。これを原爆の文脈でのみ捉えるのは性急に過ぎる。

<原子力太陽光発電>
原発は核分裂エネルギーで動く。一方、太陽光発電は核融合エネルギーで動く。太陽電池は、時空間的な距離と大気のフィルタを通じて有害物が弱められた状態で地上にやってくる太陽の核融合エネルギーを利用している。だから太陽光発電はそもそも、巨大フィルタを通じただけの巨大な核システム(原子力発電など比べものにならないくらい大きな核システム)なのだと言うことができる。

<フィルタがもたらす鈍感の奇怪>
つまり、原子力発電も太陽光発電もどっちも原子力で動く。
しかしどういうわけか原子力アレルギーの人は太陽光発電を持ち上げることが多い。
この奇妙さは、我々の社会の様相から理解出来る気がする。
我々の日常感覚が太陽電池に核を感じないのは何故か。それはこれらのフィルタのせいだろう。他物が原子力の有害な面を抑えてくれているから気にならないだけなのだ。人間は、直接的でないものに対して鈍感なのだ。

<立場を変える人々>
この鈍感さは、ビジネスの中にしばしば見受けられる。
どうせこのブログでは太陽光の話ばかりしているのだから太陽光ビジネスを例に挙げてみよう。太陽電池の商取引では製造者から商社、商社から工事屋、工事屋から消費者などとバトン数が多い。何か問題が起こったときにこの多段構造が問題となって浮き彫りになる。商社連中を観ていて興味深いのは、当事者性の無さという言葉に代表できると思う。販売時にはメーカーの立場に立ってセールスを進め、トラブル時には消費者側に立ってメーカーを責める。普段はのれんの陰で商売をする特権を使い、いざ特権がおかしいとなったら人権側。彼らは一体どっちの立場なのかと思う。この誰でもないところに身を置くことが、知らず、彼らの商売リスクを低減している。この様相は工事屋についても同様で、自社直売直営だったらやらないだろうことを、下請け業務の中ではおかしな資材を使った組み立て工事を何の迷いものなく引き受けてしまう。消費者としてはどっちを向いて文句を言えば良いやら分かりやしない。ビジネスの論理というのは人間理性においてかくも破綻している。
どうやら多段な流通構造は人間に普通に備わっている責任感覚を逸らし、鈍感さを倍加させる効果があるらしい。

<東電もまた同じ>
そういえば、福島第一原発事故の初動に際して東電の「(現場から)・・・と聞いています」といった煮え切らない態度も太陽光発電業者のそれと良く似ている。彼らは現場を代表する立場としてモノを尋ねられているのだから、伝聞系で答えるのは筋違い。様々な介在物があると人はこうも自分の生身の感覚に素直になってしまう。※ニーチェの遠近法とはこういうものかもしれない。

<原発反対論者はどこに位置するのか>
私たちがやっている太陽光発電というものは昔から原発との関わりが深い。少なくとも90年代の私の経験では山小屋や官公庁・地方自治体といった特殊な立場にある人々を除くと原発反対派が主な太陽光のお客さんだった。そういう人の家には学問的なものから広瀬隆やら恐怖商法みたいな本までごちゃまぜに積み上がっていたから、彼らの心情をどこまで真面目に受け止めれば良いのか、自分はどう考えれば良いのか悩みつつも、やっと平地にPVがやってきたとばかり仕事を楽しませてもらったものだ。思えば我乍ら勝手な話である。
一方、当時の私が彼らについて怪しんだのは、原発の恩恵を受けていることを彼ら自身があまり意識していないことであった。私は電力需要の増大が原発を必要とさせるのだと思ってきたから、エアコンの効いた部屋で原発反対の議論をする人々を異様と感じた。電気に色がついていないからだろうか。つまり対象からあまりにも遠いと誰もがこうなってしまうらしい。

<構造的に捉えると>
これらの構図を単なるアナロジーと見てはならない。
原子力の安全を考える上では責任のありかをはっきりさせないとならない。しかし太陽光発電についても同じことが問われているのである。社会が複雑化するにつれてバトン数は増えてゆく。最初にバトンを繰り出した者も中間者達もアンカー者も今では一気通貫な現場を持たない。現代社会はもはや、誰も誰かに対して責任を負うことはない。科学技術への漠たる不安の根源は実はこんなところにあるのではないかと思ったりする。

3月 21, 2011 環境・エネルギー |

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/20905/51179954

この記事へのトラックバック一覧です: 原子力アレルギーを思う:

コメント

いつも興味深く拝見しております。sun
しかし今回の議論展開は大いに疑問があります。
「原子力発電も太陽光発電も同じ核エネルギーで動いている。
だから、原子力発電を否定して太陽光発電を公定するのはおかしい」
という論法ですよね?

同じ核エネルギーを使用する発電とは言え、かたや地球上で核反応が起きていて、かたや1億5千万kmの彼方で核反応が起きているんですから、その危険度の違いは推して知るべしと思うのですが・・・

投稿: いさ | 2011/05/25 11:07:16

こんにちは。書き込みありがとうございます!!
さて、あれは比喩ですよ。
人間は、直接的でないものに対して鈍感なのだといいたかっただけです。日常においても、バトン数が多いとそうなるみたいだね、といいたかっただけです。
我乍ら、表題との整合が悪いので、上手く伝えきれていませんね。

投稿: よしどみ | 2011/05/26 8:39:49

私は「国と電力会社の体制下にある原子力発電」に反対しています。大体、事故を起こした東電のMarkⅠ原子炉は古いもの、相当以前に製造者自身がその危険性を指摘している。早い段階で対処していなかったことが根本原因で、起こるべくして起こった事故。
電力会社というのは電気事業法に護られたお役所組織。
電力会社の組織的欠陥は国の原子力政策が作ったもの。よって今回の事故の責任は全て国と、国の原子力政策に「お上の命令は神の声」と忠実に従った東京電力にある。実態として電力会社はものすごい縦割り組織、職員は隣の人が何をしているのか知らないし、知ることは許されない。危険・不具合が見つかっても、組織的に個人の責任問題にすり替えられるから、当然、与えられたことしかしない、何も考えない無責任社員になる。対外的には電気事業法に従って、非情なまでの「査定」をし、叩きまくってから、物品や業務を購入する。電力会社に真面目に見積を出すと、まちがいなく赤字になる。加えて後で何だかんだ追加してくる分も見越さなきゃならない。しかしこの見極めはものすごく難しいので、はじめから見積を水増しするしかないが、電力会社が勝手に見積もった「予定価格」があるので、それもなかなか難しい。結局、赤字分は黙って「手抜き」するしかなくなる。原発も同じことなので、そりゃあ、積もり積もって事故になるのは当たり前。まずもって法から正さない限り、原子力なんてものを日本の電力会社に扱わせるのは危険極まりないことなんです。

投稿: 電気屋 | 2011/07/30 23:23:32

商用原子力発電は、それを誰がやるにしても、規模がでかすぎます。実験室から実用化の道をたどる際の飛躍が大きすぎるのです。大きさの違いは単なるスケールの違いではなく質の違いをもたらします。質の違いの中では思わぬことが出てきます。
だから大きな実用化を果たす際には、スケール上の無数の中間的な段階を踏まなければなりません。そうでなければ、大きさの違いがもたらす質の違いが見落とされてゆくからです。僕は今の原子力発電は嫌いです。そのような意味で、ちっとも検証を経ていないトンデモ技術だからです。そもそも、商用と言うだけでも既に大きな質的飛躍があります。
実は、太陽光業界もこのアタリが良く似ていて、100w設備すら形式知化されていないから数kw設備でも既にもう怪しい。

投稿: よしどみ | 2011/08/10 11:47:57

全くです。京大原子炉実験所も同じようなことを言っています。私はX線発生装置といったものも作っていますが、掌にのるほどの小さなものでも、放射線源となると、数年かけて徹底的に検証しないと世に出せません。それだけ厳しい基準があって、国もそれを求めている。ところが原発はどうか。まるで話になっていない。政治こそ絶対。自然の原理原則、客観的な科学、「人の限界」すらもねじ曲げる。

投稿: 電気屋 | 2011/08/11 2:35:03

コメントを書く